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薄氷のフォスフォラス 七
「……以上が、アンディーブ公国の見解です。この度の出張にて、特別魔法陣の配置も完了いたしましたので、来月10日より運用を開始いたします。詳細は明日書類にまとめますわ。報告は以上です。」

国王陛下を前に、私は今回の出張の報告を終え、礼をした。
陛下の視線が、いつも通り冷たく私を刺す。……いや、いつもであれば、刺すような圧はない。周りに他の人間がいるような、いつもの、公的な場であれば。
 
出張から帰ることができたのは、日付が変わった直後。予定では前日の夕方には城に到着する筈だったが、叶わなかった。
夜中なので報告は明日にしよう、と考えていたのだが、城に戻った私を部下が迎えてくれ、こう告げた。
「お疲れ様でしたビショップ。国王陛下が"別室"でお待ちとの事です。」
……と。

「いつもながら、完璧な仕事ぶりであった。」
「ありがとうございます。」

ワイングラスをテーブルに置き、陛下はゆったりと立ち上がる。寝衣がやわらかな音をたてた。そう、寝衣。ここは公的な場ではなく、国王の私室だった。陛下が"別室"に私を呼ぶのは、公的な話をしないときだ。
私は、頭を下げたまま動かずにいた。陛下はゆっくりと歩いてこられ、私の耳元にそのお顔が近づいた。

「この度も生きて帰ってきたのだな。」

冷たい熱を帯びた陛下の声が、私に重くのしかかる。
城への到着が遅れたのは、帰り道で刺客に襲われたからだった。何とか回り道をして逃げ、護衛をしてくれた警備隊員二名も、逃げることに徹してもらった。
刺客を送ってきたのが、誰だか気づかれてはならなかった。彼らのフードの下には、ご丁寧にセイルーン小国の紋章が隠れているのを私だけが知っている。私には、逃げきるかやられるかの二択しか残されておらず、そのことを一番わかっているのは刺客を送った本人だからだ。

「不幸な事故ならば皆悲しんでくれるだろうに。」
「守らなければならないものがございますから、死ねません。」
「毎回見上げたものだ。ならば刺客など倒してしまえば楽だというのに。」
「……国王陛下の手の者であると、明るみには出せませんので。」
「その思いやりがいつかそなたの首を絞めることを祈っている。……面をあげよ。どうだ、ワインでも。」

顔をあげると、目の前の陛下はくつくつと笑う。ワインの入ったグラスが、私に差し出された。

「お気持ちだけ、頂きますわ。」
「毒は入っておらん。そなたに城で死なれると、厄介だからな。まあ私としては……
 そなたをここで亡きものにできれば楽なのだが。」

国王陛下は、私に顔を近づけ、張り付けたように笑った。"別室"で隠さずぶつけられる、明確な殺意。これに私が返せるのは、何もわかっていないかのような笑顔だけだ。

「私、15ですので……頂ける年齢になった暁には、ありがたく頂きたいと思っております。」
「フン、小娘の割にボロは出さんな。厄介に育ってくれたものよ。もうよい、部屋に戻れ。」

張り付いた笑顔はすぐに消えた。すぐに陛下は踵を返し……突然振り返られた。

「……ああ、そうか。そうだ。そうじゃないか。何故気付かなかったのか。」
「……陛下……?」

振り返った陛下の表情を見た瞬間、私は目を見開いた。
先ほど消えた笑顔とは全く違う、心底嬉しそうに笑う陛下がそこにいらした。私が幼いころに見ていた、かつてのお優しい陛下のお顔。ノイズを支えてやっておくれ、と笑ってくださった、あの時の、皆に愛される国王陛下の笑顔だった。ああ、これでノイズ殿下にも平穏の日々が訪れる。この国の、表に出ない闇が消えるんだ。
そんな考えに支配されるほど、目の前のお方の笑顔に、私は衝撃を受け、喜んでしまったのだ。

「そなたも、もう15ではないか。そうだ。それがよい。

 そなた、私の側室となれ。」

喜びが即座に凍り付き、呼吸が止まった。
あの頃の、お優しい国王陛下のその笑顔で、この方はいま何と仰った?
急速に、喉がカラカラに乾くのを感じた。何を?私が?側室?陛下に両肩を強く掴まれて、私はようやく我に返る。

「……何を、仰られるのですか。」

少しの沈黙のあと、なんとか私が絞り出した言葉は、陛下に届いている様子はない。

「そなたがビショップの責務を放棄して、私の側室になれば、娘はそなたに失望するだろう。きっとそうだ。違いない。」

笑顔には不釣り合いの圧を感じ、無意識のうちに私は後ずさっていた。だが陛下との距離はかわらない。一歩、また一歩と、肩を掴んだままの陛下が私の方へ進む。私は後ずさる。逃げる、逃げなくてはならないのでは。自分のおかれた状況を理解したその時、背中に触れたのは壁だった。抗う術などなく、強く壁に押し付けられる。
背の低い私に目線を合わせるように、陛下は屈まれ、顔が近づいた。ノイズ殿下と同じ、輝く銀髪が私の頬に落ちる。年齢を重ねられてもお綺麗な顔に浮かべる笑顔は、幼い私が尊敬していた陛下のあの笑顔なのに。その口元が紡ぐのは、恐ろしい言葉だった。

「そうすればよかったのだ、ああ気づけてよかった。すべて穏便にことが運ぶではないか。ああ妹よ、今度こそ一緒にいられるのだ。今度こそ幸せにしてあげよう!!」

私を見つめ笑う陛下の瞳の奥に、狂気の白が燃えている。
わかっていたはずだ。この方は正気ではないと自分に言い聞かせ、国とノイズ殿下をお守りしようと、私は誓ったのだから。
折れてはならない。負けてはならない。考えろ、絞り出せ、私は最後の砦なんだ。

「国王陛下っ」
「黙れ!!」

なんとか自分を奮い立たせて叫んだ瞬間、陛下の手が私の口元を塞ぐ。勢いで頭が壁に叩きつけられ、くらりと意識がゆらぎ、すぐに打った後頭部の痛みで現実に引き戻された。
私を壁に押し付けたまま、陛下は優しく笑う。

「心配せずともよい、ビショップはベルンハルトが再度就けばよいのだ。それとも自分の心配か?側室であれば何不自由ない暮らしをさせてやろうぞ。仕事もせずともよい。そなたは着飾れば美しくなる、国民は納得するだろう。ああ、そうすればあれは私だけを見るはずだ。案ずるな、側室になればそのように愛情もかけてやろう。悪い話ではないはずだ。丁度星祭も終わったところではないか、そなたをすぐに迎え入れよう、これは王命だ!!」

笑顔の瞳の奥に炎を燃し、まくしたてる陛下。正気ではない。だからこそこのお方は、邪魔な私を封じる最適解を見つけてしまったのだ。
おおらかな国とはいえ、国王の命令は絶対だ。命を絶てなどという無茶な命令でもなく、ましてや王族を除けば最高位であるビショップが背けるわけがない。きっとこの方は。狂気を秘め、国などどうでも良いと考えているこの方は、国民を一人残らず欺くだろう。ノイズ殿下の私への信頼を私に踏みにじらせ、私では思いつけないシナリオで私の力を削ぎ、皆の知らぬうちに静かに葬るだろう。欲しいものだけを手にするために。
違う、だめだ、負けてはならない、でもどうすれば。

「……何だ、その目は。まさか断る気か?」

陛下の笑顔は、今度こそ消えた。冷ややかな目が、私を睨み返す。

「そなたはどこまで私の邪魔をするのだ。娘に取り入り、ビショップの地位に潰れず、私たちを裂く。……もう一度言おう、これは王命だ、断るならばそなたを国外追放しようか。それとも命を捨てさせようか?そなたは賢いのだから、何を選べば良いのかわかるはずだ。」

私の答えはNOしかなく、私に選べるのはYESしかない。頷きたくなどない。だが、断れたところで、次は断れない状況を作られるだけだろう。例えば公的な場で逃げ場をなくされるような。
口元を塞がれたまま何もできない私を、少し不思議そうに見たあと、陛下は納得したように頷いた。

「……ああそうか、虚言だと思っておるのか?私は本気だ。小娘ひとり、ついでに愛する事くらいはできるぞ。憎むよりずっと楽だからな。さあ、証を与えよう。」

陛下の手が私の口元を離れ、首元に移動しゆるく絞められる。ころされる、と思った瞬間、陛下の顔が目前に迫った。口内に生暖かいものが侵入したところで、自分何をされているのか理解した。
まずい、逃げなければ、なんとしてでも。そう思ううちに頬を耳を撫でまわされ、体格差は私を裏切り、首をゆるく絞められたまま冷たい床におしつけられていた。恐怖はない。ただこの場から逃げることを考えていた。だが、いくらもがこうとしても、非力な私は長身の男の下で身動きすらとれない。
ようやく唇を離されて、近すぎた男の顔がはっきりと見えた。いつもの冷ややかな目と、その奥にゆれる炎と、薄く笑ったような口元、そこから垂れた唾液を拭う男の顔が。

「憎んでいたそなたをこうも簡単に押え込めるとはな。いくらでも睨むがよい、許そう。神に、星に祈るがいい、ビショップ・デュカ。そなたの負けだ。」

旅用の丈夫なシャツの釦が外され、胸元に噛みつかれ、息は辛うじてできる程度に首を絞められる。体を這う手を払うことすらできず、酸素を求め、ただ呼吸をするということに意識が集中しはじめた。いいえ、だめだ、ここで負けたら、誰が。私を手放してはいけない!出せる限り、声を振り絞り叫んだ。

「……おやめっ……ください!!!!」

体中の魔力が急速に膨らみ、破裂したように感じた。いや、たしかに破裂した。真っ白な魔力が、視界いっぱいに広がって消えた。気づけば男は動きを止め、呆然と私を見ている。
今だ。
緩んだ拘束から逃れ、なんとか立ち上がる。陛下は表情を変えないままその場に座り、もうこちらを見てはいなかった。




国王の私室からなんとか自分の部屋に逃げ帰った私は、扉を閉めたその場に座り込み、呼吸を整えた。
追ってこられる様子はない。動きを止めこちらを見ていた陛下。無意識に、何かの魔法を使ってしまったのかもしれない。陛下の動きをとめてしまうような。だとしたら反逆罪とされてもおかしくはない。
どうしよう、今まで守ってきたものが失われてしまう。全て無駄になってしまう。正気ではない王から、誰が王女を、国民と国を守るのか。
反逆罪にされないとしても、陛下には側室というカードがある。私は、私を信じてくれている人たちを裏切ることになり、失望させ、悲しませる。ビショップの立場で動けていたこともできなくなるのだから、もしかしたら代わりに誰かが国王の奥底の狂気に気づいてしまうかもしれない。そうなれば、その誰かが苦しむか、国の崩壊の引金になる……。
ぞっとして、まだ苦しさの残る胸元を掴もうとすると、殆ど外されたシャツの釦に気づいた。下着がずれ、肩紐がだらしなく二の腕に引っかかっている。それを戻すとき、体を無遠慮に這う手を思い出した。思い出すと、打った後頭部と胸元が痛む。そういえば、噛みつかれたんだ。胸元の痛みに指を這わせると、ぬるりと冷たい唾液がまとわりついた。これは、私は、私は。
急に体がガタガタと震えだした。口中を我が物顔で支配する男の舌を思い出し、今更おぞましく、恐ろしくなる。頬や体を撫でまわされた感触はただただ気持ち悪く、口内に残る違う人間の唾液の匂いに吐き気を覚えた。

「キスをしたり抱き合ったりということはね。大切な人、お前が大好きな人と思いあった延長ですることなのだよ。大事にしなさい。」

昔、老師が私の頭を撫でて言ってくださった言葉が頭に響く。今まで思い出したこともなかったのに。ああ、大事にできなかったのだ、私は。止まらぬ震えを止めようと自分を抱きしめてみても、何も起こらない。
老師に、子供の時のようにぎゅっと抱きしめてほしい。殿下に、手を握って笑ってほしい。アナマリアに、お疲れ様といって背中から抱きしめてほしい。ああ、大好きな人、あの人に……。蒼を求めて伸ばした私の手の先には、太陽のような笑顔。そしてその隣には。
……そうだった。思い出さないようにしていたのに、何故今思い出してしまったのだろう。先日の星祭で、彼の隣には誰かがいたではないか。美しい天色を暖かく揺らしながら。あのとき、私は自分の想いがどういう物だったかを思い知ったのだ。
……いいえ、そうじゃなくてもだめだ。いま、老師に、殿下に、アナマリアにもアレクさんにも近づきたくない。男の舌の、唾液の、歯の指のおぞましい感触が、体と意識にこびりついている。自分が汚れた人間のような気がして、もう大好きな人たちのことは考えないようにした。考えたら、彼らを汚してしまうような気がしたから。
ひたすら、震えが治まることだけを祈った。どれくらい時間がたったのか、いつのまにか震えは消え、蒼を求めて伸ばしていたはずの片手はだらんと力を失っていた。
……もう、いい。首の力がゆっくり抜けていく。俯く頬を流れる髪の感触、遅れて視界の端に入る白い髪。白い、髪……?ああもう、そんなことどうでもいい。考えないようにしてもまだ体に残る感触と、冷ややかな目、揺れる炎。忘れたい。ぜんぶわすれたい。

「わすれて……」

声が勝手に零れ、体中の力が抜けた。
誰かに抱き留められたような気がして、私の意識は沈んだ。



**********



「……これは、自分に自分で魔法をかけたのね。安心してね、願ったとおりに明日起きた時には忘れているわ。王も忘れていると思うのだけれど……あとで私が見ておきましょうね。」

床に座り込み、腕の中で眠る白い髪のリンクルを、優しく撫でてやる。

「こうやって抱いてあげるのは、あなたを獣人に預けて以来ね。なつかしいわ。怖かったのね。自力で純体に戻るなんて。」

さらさらと指から零れるセミロングの白い髪を、彼女に満ちる無色透明を、緩やかに珊瑚色へと戻す。

「やっぱり、強い力を持ってくれたのね。嬉しいわ。」

『おやめください』の言葉通り、この子は王にすべてをやめさせた。生きることも。数年前に王のナイフに込めた呪いまで打ち消された。狂気を失った王は、これからはただ緩やかに命を燃やし、数年でそれは燃え尽きるだろう。
この力を自覚して加減ができていれば、王はあの場で命を失っていたかもしれない。
今回こそ成功したのだと実感する。純体に戻ったリンクルは魔力に限りなく近い存在になり、言葉も呼吸もまばたきですら魔法となる。そしていずれ世界中の魔力を収束させる器となってゆくのだ。

……でもそれは、今ではない。

「今、目覚められたら困るのよ……?いい子だから、もう少し眠っていて頂戴ね。」

目覚めてしまった魔力を完全に封じ込んでから、珊瑚色の髪に戻った少女をベッドに運ぶ。外れたままだった釦を留めてやり、後頭部の打ち身と胸元の歯の痕は魔法で癒して消し、畳まれていた毛布をかけた。涙の流れなかった白い頬を、そっと撫でてやる。

「あなたが立派に育ちますように。愛しているわ。」



**********



瞼の向こうが明るい。
目が覚めると、私は旅用の服のままベッドに眠っていた。

「……ありえませんわ、私としたことが……着替えもせず眠ってしまうなんて。」

思わず、自分が情けなくなって言葉にしてしまった。疲れていたのだろうか。そういえば、昨日は国王の刺客から逃げたから、当然疲れていた。いつ部屋に戻ったのだろう。思い出そうとしても、頭の中にもやがかかったようで何も思い出せない。
時計を見れば9時過ぎ。今日は休みだけれど、いつも早く起きているから、こんな時間に起きたのは久しぶりだ。
お風呂に入って、身支度を整えて、食事をとる時間は十分にある。国王のスケジュールは、今日の13時から空いていたはず。また「無事に戻ってきた」ことで殺意を向けられたくはないから、早いうちに出張の報告をさせていただこう。20分もかからない。
立ち上がってテーブルを見ると、いくつかの紙と麻の袋。覚えていないが、きちんとテーブルに置いていたようだ。殿下にはアンディーブクリスタルのイヤリングをお土産に買ってきたから、出張の報告が終わったらお渡ししたい。老師にはひざ掛け。アナマリアはじめ、部下たちへのお土産は明日以降。アレクさんにはクリスタルスモークベーコンを……。

「……アレクさんに、空いている日を聞かなきゃですわね。」

もう気軽に食事に誘わないほうがいいことを思い出して、ベーコンの袋は奥に追いやった。
出張の報告と、殿下へのお土産を渡し終えたら、今日はゆっくりしよう。しばらく、国王陛下は殿下の部屋に向かおうとはしない。あの背筋が凍り付くような狂気の周期は、今や完全につかんでいる。刺激をしなければ良い。しばらくは多少の公務はこなされるはずだ、大丈夫。なんだか疲れている気がするから、しっかり休まなくては……。

「……報告前に、老師にお会いしにいこうかしら。」

一ヵ月ほど、老師の顔を見ていないことを、ふと思い出す。教会にいらっしゃるはずだから、昼食のお誘いをしてみよう。お土産もあるのだし。久しぶりにお会いできるかもしれない……そう考えると、心が温かくなる。
さあ、早く準備をして、師との時間を多めに取ろう。ベッドから立ち上がった私は、私服の入ったチェストに向かった。

苦難の日々はもう終わっていることを、このときの私はまだ知らない。
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